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ノーザンライトの流浪旅
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物の見方と感じ方について
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この絵って結構有名なんだろうか

いわゆる「引き寄せの法則」をオレは信じない。「幸せになる」と信じていれば幸せになれるとか、悪いことばかり考えていると実際に不運に見舞われるという法則だ。この法則に従うと「犯罪に巻き込まれる人はネガティブ思考」「交通事故に遭う人は自分も乱暴運転」「性犯罪に巻き込まれる女性はそういう願望がある」などの屁理屈がまかり通るのではないだろうか?

30歳になった頃は20代で負った負債を返済してちょうどカネが余りつつあった。そこから競馬にハマり宵越しの銭は持たない人生を送るようになるのだが、そんな中で競馬以外の趣味を持とうと思って始めたのがカメラである。それまでは無縁の世界だと思っていたが、自分がカメラに興味を持ち、実際に持って街に出るようになると、何とカメラを持っている人の多いことかと驚いた。それまでは他人がカメラを持って歩いていても認識していなかったのだろう。

カメラを趣味にしてカメラに意識が向くようになったことから、「知ってる」と「知らない」の間には大きな差異があると気がついた。例えば海外で旅行者のブログ情報を参考にして確認のために現地民に聞くのだが、バスの番号を聞いても「バスはない」「タクシーしかない」「知らない」という回答が結構多い。タクシードライバーが自分のタクシーに乗せるために「バスはない」と嘘をついているわけではない。バス会社が破産したり、治安情勢が急激に悪化したり、道路工事でルートが変わったりしたわけではない。最終的にはバスは普通に営業していて目的地に辿り着いている。要するに現地民であっても知らないものは知らないのだ。

この「知らない」=「存在しない」はある意味で恐ろしい認識感覚だと思う。知ることは他者を理解する第一歩なわけだが、その第一歩がまさに存在しないことになってしまうのだから。他者とは他人と同義ではない。自分以外の存在と言い換えることができる。自然現象のように人知を超越した存在であれば神として崇ることもあるだろうが、そうではない身近な異端に対して人間はそれほど寛容ではない。

中国、タイ、ラオスの国境付近は黄金の三角地帯と呼ばれていた。そこでは家族総出で麻薬の栽培に携わる村が密集していた。そのような環境で生まれ育った子供は、麻薬が犯罪であるとは知らないのかもしれない。内戦が続いている国で生まれ育った子供は敵を撃つことを必然と学習する。そしてそれを批判する権利は誰にもない。

インド哲学で「正しい認識」のことを"pramāṇa(プラマーナ)"と呼び、それには直接知覚と推論という2つがある。直接知覚は「見ればわかるでしょ?」という根拠であり、推論とは「考えたらこうじゃね?」という理屈だ。ただこのどちらも信頼できるかどうかは非常に曖昧である。感じるだけでは伝わらないし、考えた内容はいつも同意が得られるわけではない。

自分が「こうだ」と感じるなり想定したその根拠は果たして妥当なのか?存在しないものを根拠なく補って自分の論拠にしていないだろうか?存在するはずのものを除去して見逃していないだろうか?繋がっていないものを曖昧なインスピレーションで接続して前提としていないだろうか?正しいと思うことを証明して伝えるということはそれくらい臆病な行為だ。

仏教に唯識という分野があり、その中に「外境(げきょう)」という言葉がある。自分が見ている世界は自分の心が投影されたものであって、実在する世界と必ずしも同値ではないという考えだ。しかもその世界は人の数だけ存在するので、反対の世界にいる人間と意見がぶつかることも当然ある。

どうすればその「世界」を拡大することができるか。極めて単純だがいろんなものを見て多くのことを考えることだ。そうして自分の認識範囲を広げる意志を持つことだ。そのために世界一周なんてする必要はない。日々の生活の中で一歩向こうを想像するだけだ。だが経験から得られる知覚は時として理性を狂わせる。いわゆる「ハイになる」という熱狂の中で人間は簡単に認識を歪めてしまう。そのために思考という羅針盤が必要だと思う。

内戦国や治安が悪い国々に生まれた人なら「オレは盗みや殺しをしないと生きていけなかったんだ!」と主張することもあるだろう。でもオレが生まれたのは誰も殺す必要がない日本で、何も盗む必要がないほど普通の家庭環境だった。オレも修羅の国に生まれたら同じようになってたかもな、という想像はできるが不条理を看過する筋合いはない。

不条理に対して無理にポジティブに考える必要はないと思う。不幸な目に遭った時に「これもさらなる不幸を回避できたと思えばよい」などと考える必要はない。不幸は不幸であって持ち直せるのはニュートラルまで。相手を理解しようとする意志は必要だが、理解できなかったら両者の間には一線が引かれているのだ。その一線を書き直したり取り払うには相手の全てを受け入れる覚悟がいる。何事も受け止めることは可能でも受け入れることは容易ではない。

自分に今できることは知ろうという意志を持つことだけだ。カメラを持って初めて他のカメラを持つ人に気がついたように、知ることで今まで知らなかったことを認識することができる。それは平和な日本人に与えられた僥倖と言えよう。その知ろうという意志が自分を変え、いつか世界をより良い方向に変えていくと今は信じたい。



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